News & Column

News & Column

  • TOP
  • NEWS&COLUMN
  • 「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇

【Column】「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇

November 25, 2021

「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇|SEKISUI×SPORTS「挑戦のTASUKI」|積水化学工業株式会社

例えば、中学一年生で海外に移住する。
大人からすれば、それはとてつもない挑戦です。


でも、それは理屈で考えた時の話。
確固たる決意と夢、そして情熱さえあれば、
場合によってそれは、
自然と巡ってきた“挑戦の時”なのかもしれません。


プロテニスプレーヤーの内山靖崇選手。
世界ランキング最高位はシングルス78位。
国別対抗戦『デビスカップ』などでも日本代表として活躍する、
日本トップクラスのテニスプレーヤーです。

現役ながら、自身で『Uchiyama Cup』を主催するなど、
選手のみに留まらない活動を行う内山選手。
その飽くなき探求心は、どこから湧いてくるのか。
挑戦とは「自分にとって生きがい」と語る彼に、その原点を伺いました。


夢に向けて踏み出した、13歳の一歩

中学一年生の9月。
13歳で内山少年は、故郷の北海道からアメリカに渡りました。

その決断の理由を本人は、
「自分の中で同級生と同じように、勉強して高校受験して大学に行って就職する道は、自分にないなと思ったから」
と話します。

「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇|SEKISUI×SPORTS「挑戦のTASUKI」|積水化学工業株式会社
北海道出身で幼稚園の頃からスキーをしていた内山選手。
夏場のスポーツとして、両親が趣味としていたテニスを始めたのが7歳の時。
ちょうどその頃、引っ越してスキー場が遠くなったのもあり、次第にテニスに打ち込むようになりました。

「親がプレーしていた関係で、テニス自体が身近にあったので、のめり込むのは早かったですね」。

めきめきとテニスの実力を伸ばしていった内山選手ですが、その僅か6年後。
13歳で、テニス選手として生きていく夢を描き、そしてすぐに行動へと移します。

「アメリカ行きは中学に入ってすぐのタイミングで決めて、9月から留学しました。逆に言えば、将来をイメージできていなかったからできた決断かもしれないですね。北海道にいると冬場は雪が降って、当時はテニスを練習できる時間も本州の選手に比べて少なかった。それなら、冬もテニスができるフロリダに行けるなら行きたい、そんなシンプルな想いでした」

テニスを始めたばかりの頃、現在も内山選手のコーチを務める増田健太郎さんが札幌を来訪。
エキシビションマッチでプレーしているのを見て、「プロ選手はすごいボール打つんだ。将来いつか自分もプロになりたい」と、夢を抱いた内山少年。
その夢に向けて、一歩を踏み出した瞬間でした。

「自分が小学生だった時、テニスがどんどん楽しくなっていく中で、ぼんやり“将来プロになれたら”という想いがあった。それにチャレンジできる環境があったから、あまり迷いはなかったです。もっと挑戦したい気持ちが自然と芽生えてきたんです」


自分の物差しが国際基準に変化した

しかし、いや当然というべきか。
世界トップクラスのアメリカ・IMGアカデミーに
留学した内山選手は、全ての違いに驚かされます。

まずは、圧倒的な練習量の違い。

北海道にいた頃は、テニススクールのレッスンに週何回か通い、
練習時間も1時間10分程度。
プラスで練習してもコート一面に大人数で、2時間ぐらいが限界。

それが、IMGアカデミーでは朝6時半からランニング。7~10時で練習。10~11時はトレーニング。お昼ご飯を食べて学校へ行き、3時半に戻ると4時から6時半まで練習。晩御飯の後は、ジムで素振り…。
そこにあったのは、睡眠と食事以外、ほぼ練習という生活でした。

「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇|SEKISUI×SPORTS「挑戦のTASUKI」|積水化学工業株式会社
13歳でアメリカ・IMGアカデミーに留学

「本当にずっとテニスでしたね。寮がコートの目の前だから、すぐプレーできちゃう環境で、その練習量には圧倒されました。でも、そんな中でもたくさんテニスをできることが楽しかったんです」

もちろん、乗り越えなければいけないハードルはいくつもありました。

「壁はたくさんありましたね。小学校卒業時で170cmくらいあったから、同年代の中だと割とパワーで勝てた。ショットのスピードも速くて、力で押せる部分があったんです。でも、海外だとそうはいかない。自分より大きく、筋肉のある選手もたくさんいるので、今までのスタイルではなかなか勝てなかった。自分自身のアップデートが必要でした。新たな技術の習得、その武器も磨かなければいけない。最初の一年くらいは成果の出ない日々でした」
そういった壁にぶつかった時。
前に進めたのは、不退転の覚悟があったからでした。

「僕の場合、アメリカに行くことで退路を断った状況だった。だから、どんなに大変でも前に進むしかないという感じでした。後ろに下がる選択肢はなかった。腹を括ってやるしかなかったんです」

錦織圭選手をはじめ、世界トップ10の選手も練習する中、
自分の理想像が目の前にいる。
悔しくても前進するエネルギーを無限に受け、
「当時は不安さえ、考える暇もなかった」と話す内山選手。
少年は、徐々に自身の存在感を示す大切さを学び、
選手として大きく成長を遂げました。
その経験は、プロとなった今も大きな財産です。

「日本にずっといたらそんな想いもしなかったですし、テニスは1対1で戦う競技。相手からプレッシャーを感じたり、時には審判とも話さなければならない。全部、自分でアピールしないと過ごしやすい環境を作れない。それが当たり前になったのは、自分の物差しが国際基準に変化したから。それは、選手生活を今まで続けられている要因の一つでもあると思います」

恐れもなく飛び込んだ、世界への挑戦。
それは若さから来たものか、内山選手の飽くなきチャレンジ精神から来たものなのか。
当時を振り返って彼は、

「もう一回あのタイミングで行けると言われたら、もうちょっとちゃんと考えた方がいいんじゃないかと言うかもしれないですね」
と笑います。


「どんなに大変でも前に進むしかなかった」13歳でアメリカへ踏み出した夢への一歩/内山靖崇|SEKISUI×SPORTS「挑戦のTASUKI」|積水化学工業株式会社