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再生医療は「足もと」で変わる─細胞を支える新素材の挑戦

 

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⼈々の暮らしの多様な分野で積⽔化学の製品・技術がどのように活かされているのか。
その開発にはどんな想いや物語があり、
それは地球に暮らす⼈々や社会とどのようにつながっていくのか。
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臓器を再生し、失われた機能を取り戻すことを目指す再生医療。再生医療や細胞医薬品の進化にともない、研究の焦点は「いかに細胞を安定して育てるか」へと移っている。その未来を左右するのは、意外にも「足もと」にあった。細胞を支える足場材―細胞が生き、育つための土台だ。これまで動物由来のタンパク質に頼ってきたこの分野に、化学合成ポリマーという新たな発想が登場した。

開発を担う羽根田聡は、化学合成ポリマーで生体環境を再現しようと試行錯誤を重ねた。事業化を導く花岡秀樹は、「匠の技に頼らない細胞製造」を目指し、産業化の道を探る。製造の現場では、再生医療CDMO(受託開発製造機関)の中核を担う(株)ニコン・セル・イノベーションの岩瀬正晴氏が、実装と標準化の視点から、細胞を支える新素材の可能性を見つめている。そして臨床研究の現場では、トロント大学医学部 准教授であり信州大学医学部 特任教授の小川真一郎教授をはじめ、多くの現場で可能性を検証する動きが活発だ。医療の基盤そのものを変える「素材の革新」が、いま静かに動き出している。

細胞の「足場」を化学でつくる―新たな生命科学のフィールドへ

再生医療・細胞治療・遺伝子治療などの細胞産業は、起動の段階を終え、世界的に本格的な産業化が進みつつある。その世界市場規模は2024年に約1,700億ドルに達し、2030年には約3,800億ドルへ拡大すると予測される。その中でも、日本は幹細胞研究開発の主要リーダーであり、胚性幹細胞とiPS細胞の両方を用いた臨床試験を実施する数少ない国の一つだ。

こうした研究や製造の基盤を支える鍵となるのが、細胞を育てるための「足場材」である。R&Dセンター先進技術研究所で研究を進める羽根田が解説する。

「足場材とは、細胞をプラスチックやガラスのシャーレ、プレートなどの培養容器の表面に定着させるための接着剤のような役割を果たすもの。生体の中では、細胞同士がタンパク質を介して結びつき、一定の環境の中で機能しています。ところが、人工的な培養容器上ではその環境が再現されていないため、細胞はうまく機能を維持できず、変質したり、死んでしまったりすることも。

そこで、容器の表面に足場材を塗ることで、生体内に近い環境を再現する。言い換えると、細胞が住みやすい「床」をつくることが足場材の役割です。私たち人間も住宅の床にフローリングを張ったり、カーペットを敷いたりして住み心地を整えますよね。同じように、細胞にも「心地よく育つための環境」を整えてあげるのです」

しかし、細胞は「動物由来の足場材」でなければつかまらない。羽根田が開発を始めた2017年当時、この前提が研究者たちの常識だった。主流だったのは、たとえばコラーゲンやマトリゲルといった、動物由来の足場材。細胞の成長を支える一方で、課題もあった。ロットによる性能差、成分の不明瞭さ、冷凍保存や輸送の手間など、産業化を見据えた大量培養には限界があった。

化学合成細胞培養足場材Ceglu

そこで登場したのが、細胞の居心地そのものをデザインしようという新しい発想だ。化学の力で細胞が「つかまり、育つ」環境を再現しようとする試みは、生物学と高分子化学が交わる、まったく新しい領域の扉を開いた。発想を具体化したのが、2025年に発表された新素材「Ceglu(セグル)」である。積水化学が長年培ってきた高分子設計と表面制御の技術を基盤に、「生体環境を化学で再現する」というこれまでにない挑戦がかたちになった。鍵となった素材について、羽根田が紐解く。

「積水化学の基幹樹脂であるPVA(ポリビニルアルコール)です。親水性と疎水性、プラスとマイナスの電荷、そして硬さ。細胞が感じ取る微細な物理化学的要素を分子レベルで制御し、細胞が育っていける表面を設計しました」

決定的なブレークスルーとなったのは、2019年。ペプチド由来の要素を最小限に取り入れ、化学合成の強みと融合した瞬間だった。それにより、従来の水溶性タンパク質とは全く異なり、多種多様な培養基材へ均一表面が形成可能かつ、室温保存ができる新素材が誕生する。

「最新の機材で観察すると、細胞が気持ちよく育っているかどうかが目で見てわかります。細胞というのは、実は『歩く』んですよ。足を伸ばして少しずつ動き、自分に合った場所を探すんです」

微笑みながら、細胞の挙動を説明する羽根田。映像の中で、細胞がまるで「床の上を確かめるように」動き始めた瞬間、彼は挑戦の結実を確信したという。

R&Dセンター 先進技術研究所 ライフサイエンス開発センター
細胞制御材プロジェクトヘッド/主任研究員 羽根田 聡

アカデミアが証明した信頼とは。谷を越え、グローバルに広がる期待

「Ceglu」の開発を支えたのは、積水化学の企業文化と、産学のネットワークだった。「細胞培養といっても、当初は社内でもまったく未知の領域でした」と羽根田は振り返る。積水化学グループはプラスチックの設計・加工成形技術を活かし、自動車向けの合わせガラス用中間膜や液晶ディスプレイ用の接着剤など、社会インフラを支える素材を数多く生み出してきた。

羽根田も電子材料や自動車向けの樹脂技術に携わる研究者だったが、2017年、「積水の技術で社会に新たな価値を生み出したい」という思いから、未知のライフサイエンス分野に足を踏み入れる。

化学メーカーにとって、生物分野への進出は決して容易ではない。だが積水化学には、若手でも自らテーマを提案し、失敗を恐れずに挑戦し試行錯誤できる風土がある。羽根田はその文化のもとで京都大学などのアカデミアと連携し、ディスカッションを重ねながら、細胞培養の実証と品質評価を進めた。特に京都大学との共同研究では、細胞品質の安定性が確認され、DNAレベルでも問題がないことを実証している。

2024年には積水メディカルの花岡秀樹がプロジェクトに加わり、市場への実装を見据えた動きが加速した。花岡は、「このプロジェクトには、二つの『谷』がありました」と振り返る。

「一つ目は、開発から製品化に至るまでの谷。そしてもう一つは、製品を社会に広く浸透させるまでの谷です。最初の谷は、羽根田さんたちがすでに乗り越えました。今、私たち積水メディカルが挑んでいるのは、次の谷──使われて当たり前の環境をどう整えるか、というフェーズです」

積水メディカル 医療事業部 創薬支援事業推進部 培養資材事業企画部長 花岡 秀樹
積水メディカル
医療事業部 創薬支援事業推進部 培養資材事業企画部長 花岡 秀樹

異分野の知と技術が交わり、産業化への橋を架けようとするこの挑戦を、北米で有数の病院ネットワークを有するトロント大学医学部准教授であり信州大学医学部特任教授としても研究を進める小川真一郎氏が、医療研究の立場から評価する。

「理想的な細胞培養とは、常に同じ品質で細胞を育てられること。私たちの研究室で『Ceglu』をテストした結果、従来資材と同等か、それ以上の培養性能が確認できました。肝臓細胞の分化・アルブミン産生・代謝活性といった指標でも高い再現性を示し、長年の課題が一つ解決できたという手応えがあります」

ユニバーシティーヘルスネットワーク マッキーウェン幹細胞研究所 トロント大学 教授 信州大学 医学部 特任教授 小川 真一郎氏
ユニバーシティーヘルスネットワーク マッキーウェン幹細胞研究所 トロント大学 教授
信州大学 医学部 特任教授 小川 真一郎氏

さらに小川教授は、「Ceglu」のポテンシャルと医療現場での可能性に、強い期待を込めてこう語る。

「完全合成ポリマーを足場材に使うことができれば、安全性やコストの観点でも大きな一歩になります。適正な製造基準への適合も容易になり、臨床応用への道筋がより明確になるでしょう。細胞を育てる土台が変われば、医療のスピードも変わる。これは研究者にとっての福音と言えるのです」

医療の未来を支えるスタンダードへ。「Ceglu」が描く新しい地図

「Ceglu」の登場は、研究現場に確かな変化をもたらした。動物由来資材に限定されていた細胞培養の世界に、化学合成ポリマーという新しい選択肢が生まれたことで、多方面から関心を集めている。花岡は、その反響について語る。

「『この素材に細胞を乗せられないか?』『この工程に使えないか?』といったように、培養プレート以外の応用を模索する声が、製薬企業や装置メーカーなどから寄せられています。足場材が、細胞製造のあり方に新しい視点をもたらしつつあると言えるでしょう」

羽根田は、米国でのマーケティング拠点を立ち上げ、北米や欧州の研究施設を視察する中で、現地の研究者やメーカーの熱を肌で感じたという。

「現地の研究者は新しい素材に対してオープンでした。いくつかのパートナー企業やアカデミアと協働する機会がありましたが、再生医療の製造施設が次々と立ち上がる中で、立ち上げ段階から「Ceglu」を採用候補にしていただけるケースも出てきています。私たちが目指してきたのは、研究開発にとどまらず、製造現場で確実に機能する実装です」

細胞を製造する現場でも、「Ceglu」の存在は新たな可能性を生み出している。再生医療や細胞医薬品の製造受託(CDMO)を担うニコン・セル・イノベーション(NCLi)は、積水化学と協働しながら、実際の製造ラインへの導入を見据えた検証を進めている。

「私たちは再生医療のCDMOとして、開発から量産化、商用化までを一貫してサポートしています。特に課題となるのは再現性と安定性です。細胞の増殖や機能のばらつきは、培養環境や表面材の違いによって大きく左右されます。『Ceglu』のように化学的に設計された素材は、製造現場でのばらつきを最小化できる大きな可能性を感じています」と、NCLiの岩瀬正晴氏は語る。

(株)ニコン・セル・イノベーション 岩瀬正晴氏

製造の現場を見据えるNCLiは、「Ceglu」が持つ合理性と一貫性に注目している。岩瀬氏が続ける。

「研究段階だけでなく、製造スケールまで一貫して同じ素材を使える点が非常に重要です。製造工程をシンプルにし、再現性を確保できれば、量産化にも耐えうる仕組みが作れます。開発コストが下がれば、薬価も下げられる。つまり、患者に届く医療そのもののコストを抑えられます。再生医療を特別な治療から日常の医療へと広げていくためには、こうした製造の標準化が不可欠だと考えています」

さらに岩瀬氏は、研究と産業の共創がもたらす次のステージを展望する。

「商用化までのプロセスを短縮し、確実に実装できるプラットフォームを整えていくことが重要です。表面コートや足場材はその基盤を支える重要なパーツ。今後は実際の製造ラインへのスケールアップフェーズに入ります。積水化学グループを含めて、パートナーと率直に話し合いながら最適解を見つけていきたい。研究・製造・企業がオープンに連携し、産業として成熟していく──その共創の輪を描いていければと思います」

パートナー企業、そしてアカデミアとの共創を進める中で、羽根田は研究から実装に向けた使命をこう語る。

「これまで積水化学グループが支えてきたのは、住宅やインフラといった社会基盤でした。いま、その技術が“生命を支える医療インフラ”づくりへと進化しようとしています。私たちの技術で、人のQOLを直接支えるものを生み出したい。それがこの研究の原点です」

世界に広がる市場を見渡し、研究開発に伴走する花岡も、その先を見据える。

「再生医療が普及していくためには、匠の技がなくとも細胞製造できるようにならなければなりません。どこで作っても、安定した品質の細胞を供給できる世界へ。これまで熟練者の手技に依存していた細胞培養を、再現性の高い産業プロセスに転換していければと考えています」

変革の鍵を握るのが、「Ceglu」のような標準化された材料だ。羽根田が言及したように、各国で共同研究や実証プロジェクトが動き始め、材料の革新が細胞産業という新しい地図を描き換えようとしている。その流れを、小川教授は次のように語る。

「動物由来のものに頼らず、化学的に設計された足場材が普及すれば、細胞を扱う研究や製造のルールもより明確になるでしょう。『Ceglu』のような新素材の登場をきっかけに、材料が標準化していくことは、安全性と再現性の両面で大きな意義があります。

大切なのは、倫理を徹底すること、科学的な標準を確立すること、そして社会にわかりやすく伝えていくこと。この三つがそろって初めて、再生医療は特別な医療から日常の医療へと進化していくはずです。私はその未来を、現実のものとして見据えています」

細胞の足もとを支える試みから、再生医療の明日が見える。開発者たちのものづくりの情熱と、研究者たちの知恵が重なり合うとき―「材料」が医療の未来を静かに塗り替えていく。